基本的にごみのブログ

ゴミとか日常とか

忘れる事

冷蔵庫をあけると食材がない。一週間家を空けていたのだから、当然だろう。買い物に行くことにした。買うものを紙きれに書き、机に置く。洗濯物を干してから買い物に行こう。そうして目を離した5分10分の間に、メモした紙きれは紛失する。

昨日の晩は何を食べたのだっけ。こないだ会ったあの人の名前。最近発売された本の題名。日時を忘れ、予定を忘れ、鉛筆や消しゴムが恐ろしいスピードでなくなっていく。

そしてそれらは、忘れた頃に出てくる。

神経衰弱というトランプゲームがある。

順番に2枚ずつ裏返したカードを捲っていき、数字を合わせる。記憶力が要のゲームだけれど、私は中学生に入る前ぐらいから諦めていた。ただでさえ覚えられないのに、覚える気力すら無くしてしまっては、もはや神経衰弱というゲームで勝つことはほぼ出来ないと言ってもいい。

こうした日々の暮らしの中で支障のある「物忘れ」について、私は半ば諦めていたように思う。「人は忘れる生き物だから」。と言って。

しかし、いつからこんなに忘れるようになったんだろう。正月にふと思いつき、「忘れるということ」について、皆んなで話していた。

その中で、とても印象に残っている話がある。

 

「忘れる」というのは、人間の持つ機能なのではないか。人は、悲しい時、辛い時、苦しい経験をした時、そんな記憶を、忘れてはいけない、ではなく、忘れられない。忘れたくても忘れることはできない。それでも、時間というものが、忘れるという機能がある。それは、人間にとって救いなのではないか。勿論、覚えておきたい、ずっと残しておかなければならないということもある。それでも、どうしても、同じように、それらも風化するように少しずつ色褪せていくものだ。それが、「忘れる」ということなんじゃないか…。

 

私は「忘れる」ということを、少しの諦めと、自分の要素の1つだと思っていた。話を聞いて、「忘れる」という事によって救われた昔を、少し思い出していた。そして、自分に寛容になれた感覚を持った。無意識やけど、忘れるのは良くないと、責めていたのかもしれない。「私は忘れっぽい」と自分を決めつけていたというか、思い決めていた事を見つけたようにも思う。

忘れるというよりも、記憶する部分が変わっているのではないか、と少し前に考えた事がある。名前や数字、位置など、視覚や情報などの記憶から、他のものとの関連性をもったものや、五感に即した記憶というふうに。それと同じように、「忘れる」というものも色々あるんだろう。まあ、とにかくやっぱり物忘れの方は止めようとは思ったけれど。

記憶する事と忘れるという事は、同じ部分にあるのだろうか。だとしたら、メモリーカードみたいに記憶する容量が決まっているんだろうか。もしそうなら、忘れたいことは忘れたいし、覚えときたいものは覚えときたい。でも、そんな単純じゃないことは経験でなんとなく分かっている。

風が吹けば風化していく。私の大切な記憶も風化していくんだろうか。大切なものが消えてしまうかもしれないのは怖いけれど、風が吹かなくなるのは、もっと怖いかもしれない。

私にとって救いなのは、今、生きているということだ。そして、風化していく中にも、未だ変わらずに新鮮なまま、香りや声までもが、むしろ鮮やかにあるものがあるということだ。

私は今24歳。多分もうちょっと人生は長いはずだ。きっと、大切なものは増えたり大きくなったりする。悲しいことや辛いことだってきっとある。そして、たくさん覚えてたくさん忘れるんだろう。

そんな未来が、たのしみでしかたない。

f:id:wearegomi:20230107230545j:image